きゆさだのブログ

ワイルドサイド抜け作

日記(分断、カルチャー、現場)

言葉には手垢がつく。手垢がつくとどうなるかというと、はじめは時事と結びついてクリアに共有されていたその意味が、だんだんボヤッとしてくる。

最近、いい加減使う人も減ってきた「分断」という単語について考えた。使われすぎるあまり意味合いがだんだんボヤッとしてきて、2016年当時ほど便利な言葉ではなくなってきた。

出元はトランプ政権爆誕Brexitで、「自分の観測範囲じゃ9割NOだった投票結果がYESに終わった不気味さ」に端を発していた。確固たる良心と根拠をもってNOを出した(出す余裕のあった)自分たちが実は少数派だったという絶望。インターネットが見せる観測範囲の限界に、インターネットを信じていた人々がいよいよ気づきだした年。

「分断」は「もともとつながっていた領域が切り離された」現象じゃなく、「それまで見えていなかったものに気づかされた」出来事だ。なにかが断たれたんじゃなくて、あくまでひとつの気づき。だから実際、「分断」に気づいたからといって私らにできることがそんな変わったわけではないと思う。より切実にはなった。

自分の観測範囲の限界を知り、ムラの中にいながら外とつながり、外に呼びかける方法を探す。ムラに合いそうな人を外から探して引っ張ってこなければ、どのカルチャーもいずれ死ぬので…。

そんな地道な人の引き込みが分断の解消につながるかというと違う気がする。たぶん「分断」自体は太古の昔からあって、発生するとか解消するとかいうものではないんじゃないか。人間は手足が2本ずつしかないし、移動に時間がかかるし、顔を覚えられる人数にも限りがある。一人一人のそういう限界からはみ出たものの集積が「分断」なんじゃないか。人類みんなそろって高次存在にでもなれたら解消されるかもしれない。あるいは眉間にチップを埋め込んだら少しはマシになるか……。

解消どうこうはともかく、自分の観測範囲外、ムラの外と最もダイレクトにつながれる手段はインターネットではなく現場にあると思っている。実店舗を置けばふらっと入ってくる人もいるし、なんとなく入ったカフェでイベントのフライヤーを手に取ることもある。

私自身はただの勤め人だけど、職場のカルチャー畑ではない人とかにも、あまりためらわずにカルチャーの話をする。メシや旅行の話題にかこつけて、あのエリアはこういう店や人たちがいるからアツいとか、あそこの店はオムライスが死ぬほどうまいしライブ会場としても大変オツだとかを話す。詳しいんですねと言われてひけらかしてるような恥ずい気持ちにもなるけど、インターネット民主が好きなので、おらが村の豆知識共有をためらう理由は特にない。歓談のジャマにならないよう手軽な話し方を探している感じはあるけど、結局のところエゴだし、煙たがられなければ良いと思っている。

 

(5/1 追記)

モーションギャラリー代表・大高健志さんのミニシアター・エイドにまつわるインタビューで、「分断」についてある種腑に落ちる表現があった。

コロナを機に、分断がますます進むでしょう。分断は格差よりひどい、相手の立場にまったく立てない、それによって生まれているひずみを認識する共通言語がない、ということですから。

「分断の進行」がなにを指すのかを考える。少なくとも上で書いたような人/グループ単位の発見ではなくて、友人のような既知の間柄の中で改めて気づかされる小さな隔たりの、その集積度合い、とか……。大きな問題を考えるときには人/グループ単位の分断を想定しがちだけど、既知の間柄に新たに生まれていくタイプの分断(無理解)はよりいっそう人を寂しくする。下手するとそれは、ただ会わずにいるだけでも進行してしまう感じすらある。それまで「無関心」ゾーンに置かれていたものたちが、スウィートランドの段差よろしく「嫌悪」「不可解」ゾーンにじわじわ落とされていくような。